復活への道

じゃみーの

事故から後遺症までの記録

あまりに怪我した場所が多すぎて、参考になるかどうかわかりませんが、怪我のことから、現在の体の状態までを書いてみます. これだけひどい怪我をしても社会復帰できました。
ちょっと長いので、お暇な時に読んでね。

1.事故直後の傷病名(診断書より) 「病名14!こんな僕でも1年後には社会復帰」

@ 脊髄損傷 A 血気胸 B 右膝窩動脈損傷 C 右肩甲骨骨折 D 右鎖骨骨折 E 胸骨骨折 F 右腕神経叢損傷 G 右肋骨骨折 H 消化管出血 I 頭部打撲 J 第5,6胸椎骨折 K 脊髄性ショック L 出血性ショック M DIC(血が止まりにくくなることらしい)
(事故直後に動かせたのは左手だけ)

2.事故から職場復帰までの経緯

1996/2/14 バイクの自爆。前輪がマンホールでスリップ。そのまま飛んで行けば良かったのに、頭から歩道の木に激突、衝撃をすべて体で吸収。
1996/03 右膝の裏のあたりの動脈損傷により、右足壊死。1か月がんばったが、生命の危険有りと切断を判断。
1996/05 胸椎骨折のため、3か月寝たきりであったが、ついにリハビリ開始。当時はベッドから車椅子に移る事もままならず。3か月も寝ていると筋肉があっという間に無くなってしまう。
1996/07 仮義足製作。義足の練習開始。
1996/10 退院。自宅療養開始。この頃は、買い物に良くだけでも恐怖。そしてくたくたに疲れた。
1997/03 職場復帰。

3.切断に至る経緯をやや詳しく

20:00頃 帰宅途中で転倒。受け入れ病院探しに時間がかかり1〜2時間後に病院に到着。外見上傷が無かったので同行した同僚も大したけがだとは思ってなかった。
深夜?時 当直の先生がレントゲンを取った結果、5箇所の骨折発見。重体。特に背骨の骨折が問題。当時は半身不随。
その時、なぜか、右足に太ももから足首までギブスをはめられた。右足のどこかが骨折していたと記憶しているが、すでに動脈の損傷が分かっていたのか?
深夜?時 妻がギブスから少しだけ出ている右足の指の温度の異常に気づき、看護士に連絡。でもすぐには対処せず。
翌朝?時 MRIで右足動脈の検査。その日の午後、動脈の緊急手術。

壊死の原因が2つ考えられる。
@この時点で、壊死が始まっていたこと。
Aその後、手術後の血管の状態がよろしくなく、十分に血液が流れていなかったこと
(膝の角度でうまく流れるときとそうでない時があると先生が言っていた)。

※@の理由は次の文献を読んで分った.
※膝窩動脈損傷では、受傷後6−8時間のゴールデン時間内での血行再建が無ければ、足部の壊死あるいは下腿の高度の阻血性拘縮は避けられない。
(「下肢切断者リハビリテーション」 医歯薬出版株式会社、8ページ)

その後1か月間 ふくらはぎ辺りの壊死した部位を取り除く手術を何回か行い、回復を待つも、40度以上の発熱が続く。壊死した部分を取り除く手術の1回目で、大量出血により、意識不明を体験。
大量輸血により意識が戻った時、先生が慌てながら、僕の名前を呼んでいた。家族が呼ばれたらしい。
1か月後 切断判断。大腿部より切断。
その時、膝の有無がこれほど重要だなんて分からなかったのが残念。リスクを考えると確かに大腿部の切断しかなかったとも思えるものの、粘っても良かったような。
バイクのレーサーでおなじみのミック・ドゥーハンはレース中の事故で右足の複雑骨折となり、最初?の病院では切断すると言われたが、拒絶しつづけ、アメリカの病院に転院し、切断を回避する事ができた。
ツインリンク茂木にレースを見に行ったとき、元気に歩いてトイレに入る彼の姿を見た。いいなー。
その後1 術後も、しばらく熱が下がらず、本人はそんな気は無いがまわりはかなり心配した。
奇跡を起こすと有名になった「ダイヤモンド富士」の写真を朝日新聞から購入し、病室に貼った頃から、病状回復。命だけは助かった。本当に病室に貼った直後から好転した。
その後2 先に述べたように、しばらくは半身不随、実は右手も動かなかったのに、いつの頃からかすこーしずつ動き出し、事故から3か月、切断から2か月後には、とりあえず、車椅子に移れるようになった。

4.後遺症

右大腿切断 これは書くまでも無く。
右腕神経障害 1年に数回、指が動かなくなる。
脊髄損傷 脊髄損傷のため、足の運動機能と排泄機能と皮膚感覚に障害が残る。
健足の左足、あまり力が入らない。ケンケンがどうもしっかりできない。
大・小の排泄機能は入院中の大変なリハビリにより、人工肛門などを付けずとも生活できるまでに回復。
皮膚感覚障害がやっかい。ある程度は回復したものの、布団を何枚かけたらいいのかがわからず、ぐっすり眠れる日が少なく、睡眠不足みたいになり体調を壊す事がよくある。
肩甲骨 肩甲骨の変形治癒。つまり、ずれて引っ付いてしまったので、ハンドボールで鍛えた右肩がうまく回らなくなってしまった。
でも日常に支障無く、子供とのキャッチボールもできるまで回復.無理やり回して、骨が削れたのかも.
肋骨、鎖骨 こちらも変形治癒。障害は無いが、触るとずれていて気持ち悪い.

5.心情

このページのテーマに沿うならば、どのように立ち直ったかという点を参考までに書きたいところだが、そもそも、落ち込んでなかったので、あまり参考にならないようなきがする。

切断前・・・

体中に痛みがあり、40度以上の熱、平常心で無かったとも言える.けれど、今思えば、整形外科の先生が、こりゃやばいと思った頃から、なーんとなく、「切断しないとだめかもしれない」というように、ショックを和らげるために、ふらーっと病室に来ては話をしていってくれた。

だから、いよいよという時は、それなりに覚悟が出来ていたと言える。お医者さんは、体だけでなく心のケアができる人で無いとダメ.

切断後・・・

切断した足を触るのが怖かった。
けれど、人生を悲観して、わめいたり、泣いたり、やつあたりしたり、そんなことにはならずに済んだ。

その訳を自分なりに解析すると

  1. 事故を起こしたのは自分自身の責任。いやはや情けない。
  2. 既婚だった。将来結婚できない・・・、なんて未婚の若者が心配するような事は無かった。のうてんきだから、離婚されて置いてかれるなんてこと思わなかった。
  3. 子供が3人いた。一日も早く治して会いたくなる。
  4. そんなわけで、30歳を過ぎてました。
  5. 結果的に職場復帰できた。これも大きい。職を失った場合のショックは大きい。
  6. まじめな性格。先生、看護士さんの指示を一生懸命実行していたので、落ち込む暇が無い。飯を食う、排泄する、リハビリする、風呂入る・・これをこなしているとあっという間に1日が終わった。

長く入院していたので、いろんな患者さんに会ったが、@〜Dの条件がひとつ無いだけでも、かなり落ち込んでしまう。掛ける言葉が見つからない。

「じゃみーさんのように、ひどい怪我でも立派に楽しい人生を送っている人がいるのだから、おまえもがんばらなきゃ」なんて言われても、本人も分かっていても、なんだか理由はわからないけれど、落ち込んだ気持ちがなかなか晴れる事は無いのではないかと想像する。 若いとつらいよなー。

落ち込んだという意識が無い僕でも、たった1日だけ、突然涙が止まらなくなって、ベッドの上で、延々泣きつづけた事が有る。悲しいとか、辛いとか、そんな感情じゃなくて、ただただ涙が止まらない。どうやら心のどこかに傷が出来ているらしい。

でも、言わせて欲しい、
家族や友人もショックを受けているのである、
君が暗いと周りのみんなの生活も暗くなる
これって寂しい

以前と同じようにはできないけれど、違う方法で楽しい人生が送れることは”間違い無い”。すべて我々次第である。

◎ 追記

2006.08.04 「ダイヤモンド富士」について(まみさんからの情報)

1995年8月21日付朝日新聞朝刊1面に載った「ダイヤモンド富士」と呼ばれる日の出の写真。値段は税込&送料込みで、
キャビネ(12×16センチ)1,050円
八切(16×21センチ)1,575円
六切(20×25センチ)2,100円
四切(25×30センチ)3,150円
でした。ちなみに購入窓口は同社の知的財産センターでした。


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